「壬申の乱」勃発直後、大海人皇子軍が苦戦した理由
古代史上最大の内乱戦争! 大海人皇子VS大友皇子 「壬申の乱」の通説を覆す! 第4回
大友側の戦闘準備を察し天武が立つも苦戦
6月27日には天武が美濃国不破評に入った。当時、和ヶ原と呼ばれていた現在の関ヶ原に本陣がおかれた。ここで天武は長子の高市皇子に全権を委譲している。天武軍の総帥は若い高市となったのである。天武は出家しており法体であったから、前線に立つことを避けたのであろうか。
6月29日、大伴吹負という武人が倭古京で挙兵、大友の指示で小墾田兵庫の武器を大津宮に運び去ろうとしていたのを阻止することに成功する。これが壬申の乱の開戦となった。戦闘の勝敗は武器の多寡によって決まるから、大友軍が大量の武器を失ったことは大きな痛手となったに違いない。
吹負の兄の馬来田は吉野を出た天武の後を追い、その警護にあたったが、吹負は兄とは別行動を取っていた。彼は自邸から見て目と鼻の先の小墾田兵庫で大友側による武器の運び出しが始まったのを見て、急襲して武器を強奪、それを手土産に天武軍に参陣することで、戦功のうえで兄を出し抜こうと企てたらしい。大伴氏の兄弟も決して一枚岩ではなかったのである。これ以後、内乱は一挙に拡大、吹負の挙兵によって倭古京を制圧した天武軍に対し、畿内一円で徴発された大友側の大軍が倭古京奪回を期して、いっせいに襲いかかっていくことになる。吹負は天武により大倭国方面の総司令官に任命されたが、大友軍の猛攻の前に苦戦を強いられるのである。
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